ここで頑張ればバレー部は復活する!あの廃部を告知された日の屈辱を忘れるな!
「ガルパンプルバックタンク」③はアヒルさんチーム、バレー部でお馴染みの八九式中戦車!
それもレアな発見時です!
目次
八九式発見時って?
大洗女子学園では戦車道の復活に伴い、廃止前に存在した戦車を捜索することとなりました。
八九式中戦車を発見したのはバレー部で、なんと崖の途中にある洞窟の中にありました。
側面には壱とマーキングされており、朽ち果てた姿で眠っていました。
この頃はまだ、パンターやIS-2、パーシングとあんな激戦を繰り広げるとは誰も思っていなかったのです。
八九式中戦車ってどういう経緯で生まれたの?
もともと日本では第一次世界大戦を見学しに行った観戦武官から「戦車っていうすごいやつが戦ってた!」という情報を得ていました。
そこでお試し版としてフランス製「ルノーFT17軽戦車」、イギリス製「Mk.A ホイペット中戦車」が輸入されました。
そして大正末期には「正式な戦車が必要だよね」という話になり、自分で生産するのではなく海外から買っちゃおうという話になります。
しかし、お試しで輸入したフランスもイギリスも最新の戦車は売ってくれません。
そこで陸軍がこっそりと進めていた国産戦車研究を活かし、国産戦車を作ることに!
そして1927年には初の国産独自開発戦車「試製一号戦車」(18t)が完成!
その勢いもあって、今度は10トン以下の軽戦車の開発をすることに。
そこで生まれたのが試製八九式”軽戦車”!
もともと軽戦車として開発された八九式、しかし様々な改修によっていつの間にか11.8tに!
日本では軽戦車=10トン以下、重戦車=10トン以上という分類があったため、重さだけ見れば重戦車になってしまいました。
しかもこの頃に九五式軽戦車というさらに軽い戦車が生まれてしまいまい、いよいよ訳がわからなくなってきました。
仕方なく、「中戦車」という分類が新たに生まれ、日本初の国産制式戦車、そして日本初の中戦車として量産が開始されたのでした。
パーツです!
パーツは車体、砲塔、砲身、キューポラの4つ。
シンプルですね。
組み立ててみました!
左側面です。
履帯の上、車体側面装甲には「壱」のマーキングが。
こうしてみるとデフォルメの八九式でも迫力がありますね!
後部にはそりがついていてかわいいです。
よく見ると後部にもちゃんと「壱」の字が!
今回、この八九式がダブったので実はたくさんあります。
明日は練習試合バージョンです。