シン・エヴァンゲリオンを観た感想(個人向け雑記)

あまりにもひどい文章(いつもどおり)だけど、この新鮮な衝撃を書き留めておかないとどこかに落としてしまいそう。

シン・エヴァンゲリオンはとても観たかった作品、という一言では現せない。
エヴァンゲリオンという作品との最後の再会であり、訣別となる(個人的に)とても大事な作品だ。

しかし折しもコロナウイルスによる社会生活の制限下での公開だったため、職場への強い要請により不特定多数と接触する恐れのある劇場へは行けなかった。

90%はこの言い訳だが、残りの10%はエヴァと別れ難く感じてしまったのだ。

エヴァと出会ったのは小学生の頃で、確かもう古いセガサターンをソフトと一緒に親戚のおじさんに貰ったときだ。
もうボロボロのセガサターンだったが、そこでサクラ大戦やエヴァンゲリオンに出会った。

ちょっと前の庵野監督のインタビューで言われていた「知らない間にゲームが出されてた」というのはたぶんこのセガサターンのゲームなんじゃないかと思う。
あれ以来プレイしていないので詳細はよく覚えていないが、3本ほどプレイした覚えがある。

つまり私にとっては『最遊記』と並び、オタクへの入り口だった作品だ。
中学以降は何を血迷ったのか部活にフルパワーで打ち込んでいたので少し離れてしまっていたが、やはりエヴァは特別な作品だった。

……どうしても別れづらい。
そんな思いが劇場へ背を向ける理由だったのかもしれない。

さてではなぜ本日感想を書いているかというと、Amazon Prime Videoでシン・エヴァンゲリオンが公開されたのだ。
劇場で公開し続けたり、ブルーレイなどでもまだまだ儲かるであろう作品をこうして広く観れるようにしてくれたのはコロナで暗い社会へのサービスサービス!にしてはかなりの大盤振る舞い。
ありがとうございます。

観れる環境になってしまったのなら、もう逃げ続けることはできない。

私は意を決して日付が変わるのを待ち、観ることにした。

結果、私は打ちのめされた。

何を言っていいかすら、わからない。
ただ思うのは「これを劇場で見た人はよく二足歩行で家まで帰れたな」ということ。

もう私の少ない語彙力で現せるようなレベルのものではなかった。
ネタバレをある程度意識的に避けつつも「アスカとケンスケが・・・」みたいな話は漏れ聞こえていたが、全体から考えれば「それどころじゃねえ」という感じ。

エヴァンゲリオンが結局どうなるのか、というのは私にとって子供の頃からの最大の謎だったかもしれない。
それが知りたくて、沢山の本やゲームを買ったりした。
だけど私は頭が良くないのでいまいちよくわからなかったのだ。

TVシリーズのエヴァンゲリオンでは大人の事情で子どもたちが振り回されていた、劇場版では逆にチルドレンが大人たちとの繋がりを拒んでいた。
その結果Qではお互いの繋がりが断絶してしまう。

しかしシン・エヴァンゲリオンでわかったのは、結局エヴァンゲリオンを振り回していたのは登場人物の誰でもない、観客である私達なんだなと感じた。

浅い感想かもしれないが、私達がいなければエヴァは生まれずにこの世界のどこかで登場人物たちは平和に暮らせたのかもしれない。
もしくは私達がロボットバトルを求めなければ平和な学園モノの世界だったかもしれない。

考察や解釈を重ねて、エヴァパイロットは14歳じゃなければいけないし、エヴァはなにか大きなモノと戦わなければならないという私達の期待や希望がそのままエヴァンゲリオンの世界の呪縛だった。
あの日、私達がシンジくんに心の底から「おめでとう」と言えていれば、私達への卒業式とカーテンコールを行う必要はなかったのだ。
私達がTVシリーズで納得してエヴァにお別れを言えなかったから、エヴァンゲリオンの方からお別れを言わざるを得なかった。

とにかくエヴァンゲリオンは終わった。
エヴァに熱中した私達も現実に戻る時間だ。
つまりイケメンでスーツの似合ういい匂いの彼氏を探してもいいし、かわいくて胸の大きい彼女を探してもいい。
それが許されなかったエヴァの世界と違って、ここでは使徒も襲ってこないし四季も巡るし、海も青色なのだから。
「すべてのエヴァンゲリオン」には私達の中のエヴァも含まれる。

とっても別れるのは寂しいけれど、あのどこが出したかもわからない資料集や解説本を買い集めた楽しかった日々をありがとう。
ゲームに熱中して過ごした夏休みをありがとう。
暑い夏の木陰で感じた第3新東京市を、妄想の中で過ごしたNERV本部をありがとう。
私にとってはずっと年上のお兄さん・お姉さんだったチルドレンたちが幸せになってくれて、ありがとう。

そしてさようなら、すべてのエヴァンゲリオン。

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